2015年4月23日ポール・マッカートニー東京ドーム

 正直、ポールが出てきてもそれほど感動しなかった。というのも昨年国立競技場まで行ってのキャンセル通知があり、くやしいのでその後公開されたポールのライヴ・ドキュメント映画を観てしまったからだ。その映画のニューヨーク・ライヴと、今回、さほど内容が変わっておらず、つまりあの映画をもう一度観ているような展開。この曲の次はあの曲。この曲が終わったらアンコールでアンコールの1曲目はあの曲、などと分かってしまうので、面白くない。
死ぬのは奴らだ」において舞台からボカンボカンと爆発と煙が上がるというコンサート最大の山場でもびっくりしなかった。「ペーパーバックライター」「エレナーリグビー」「ヘルタースケルター」「バック・イン・ザ・USSR」と、なんの情報も持っていなかったら大喜びするはずの曲も、そうだよなそれはやるよな、というような感想しか持てない。「レット・イット・ビー」「ヘイ・ジュード」に至っては、べつにやらなくてもいいんじゃない?もういいだろそれは。と思った。「レディ・マドンナ」「オブラディオブラダ」もそう、かなり冷めて観ていた。
 
結局、終わっての感想は、「物足りない」というものだった。ドキュメント映画を観てしまっているため、という明らかな理由があるので仕方ないな、と当日は思っていた。
 
ところが数日経っていま振り返ると、理由はそれだけではないような気がしてきた。つまり当然だが、ジョンの不在である。ジョージの不在である。リンゴの不在である。ひとりビートルズとして、ポールはがんばっている。確かにそれは認める。それはそうなのだが、それ以上でも以下でもない。ビートルズはとっくに、終わっているのだ。
 
良くも悪くもそのことを再確認した(させられた)ライヴであった。